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もえぎのhtnb

萌えぎのエレンのメインブログです

ゴティックメードはどうして地味な映画なのか #FSS_jp

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 2014年5月。封切から一年以上過ぎて、ぼくはようやく永野護監督の映画『花の詩女 ゴティックメード』を見た。
 予想に反して、地味な映画だった。
 ある国の女王となる、詩女(うため)と呼ばれる若い女性と、彼女の護衛を命ぜられた大国の皇子。この二人が目的地の都にたどり着くまでを描くロードムービー。簡単に説明すると、そのような物語だ。

 ユーチューブでも公開された予告編では、迫る敵のロボット、詩女や皇子などの主役キャスト、そして主役ロボット、それらの映像がテンポ良くつなげられていて、これは面白いロボットアニメだと期待させるものだった。ところが、映画本編には、予告編でみられた、カメラワークの気持ちよさがなかった。予告編と映画の印象が異なることは、よくあるし、気持ちよさがなかったから面白くなかったということではない。
 この映画のストーリーは、シンプルで分かりやすい。これまでのすべての歴史を知り、その膨大な脳内アーカイブから人々に的確な助言を与える巫女のような存在である詩女と、超人的な反射神経の持ち主であり戦争の代理人でもある騎士として生まれ、騎士が操縦する戦闘ロボットによって平和が守られていると信じて疑わない皇子。戦うか戦わないか、それぞれの特殊な能力を否定するか肯定するかで言い争う二人が、実はお互いに同じ立場、運命であったことを、一緒に旅をしていくうちに気づく。旅を終えた二人は堅い絆で結ばれ、それぞれの進むべき道へ向かう。詩女の蒔いた種は、数百年、数千年の時を経て、その都へ通じる花の道となる。
 この映画のハイライト、最も注目すべきなのは、皇子が乗り込んだ主役ロボットが起動するシーンだ。かがんだ状態のロボットが光り、手が動き、顔が動き、立ち上がる。その一連のシークエンスは、見たことのない動きと聴いたことのない起動音(しかも劇場でのそれはとてつもない爆音)で、今まさに、何かとんでもない怪物が誕生するような、恐ろしく、美しいものだ。すべてのロボット作画は監督の永野が担当したのだという。アニメ史には、庵野秀明が作画したナウシカ巨神兵に匹敵する、名シーンと記されるだろう。そして、起動した主役ロボットが敵のロボットを倒す。この世界のロボットは戦いに特化した超高速の動きであり、主役ロボットは最強という設定である。そして、それゆえに、戦闘は一瞬で終わる。椿三十郎のラストシーンのように、あっという間に決着がつく。ロボットに乗り込んだ主人公が、どう戦うか、悩み、苦戦するという、ガンダムエヴァンゲリオンのような描写は一切ない。その前後には、主人公たちが大きな陰謀に巻き込まれ、苦難を強いられるという流れはある。しかし、ロボットの戦闘は、その強さと速さゆえに一瞬で終わる。この70分の映画でのロボットが活躍するシーンは、この一瞬しかないのだ。
 永野は、自分の作品に登場するロボットの複雑な動きは手描きのアニメ作画では困難であると(永野自身が)昔から主張していた。ファイブスター物語のアニメ化(1989年公開のアニメ映画)に反対したのも、それが理由だった。今回、現在の3DCG技術でも動かすことが無理だと判断した永野は、ロボットの作画をすべて自分で行うしかないと決めた。動きは文句ない。しかし、永野一人で作画するのは、さすがに1シーンが限界だったのだろう。主人公がロボットに乗り込む(戦う)までの話の流れがあるからこそロボットアニメであり、その流れは破綻していないし、ストーリーに不自然な点はない。だから、ロボットが動くシーンがあの数分であることは、正直物足りないけれど、納得している。では、ぼくが先に書いた、この映画に対する評価、「地味な映画」とは、どういうことななのか。
 地味。つまり派手ではないという意味なのだが、それは、他のロボットアニメと比べて、ということだ。この映画では、例えば、人物の細やかな芝居が、多くの枚数を使って丁寧に作画されている。構図も基本的に全景であり、1カット当たりの秒数も長い。最近のアニメではあまりみられない画作りが、この映画の特徴だ。ぼくのようなアニメファンは、エヴァンゲリオンのような、出来るだけ枚数を減らして、カメラワークなどで動いて見えるような「騙し」のテクニックに、いわば「酔って」しまっている。それは、エヴァンゲリオンの監督である庵野秀明や、攻殻機動隊の監督である押井守が唱えるように、近年のアニメ制作現場で確立した効率論であり、少ない作業で最大の効果を得るマネージメント術ではある。そして、そのようなアニメとは正反対の作りなのが、この『花の詩女 ゴティックメード』だ。監督の永野自身が白蛇伝(1958年)のような昔の東映動画の長編映画を意識したと語っているように、古い画だという印象を抱くアニメファンがいるのかもしれない。しかし、だからこの映画は、普段アニメを見ないような方々のほうが正当に評価できるのかもしれない。

 ということで、感想を書いてみました。ぜひとも見て頂きたいというつもりで書いた文章なのですが、2012年公開にも関わらず、どういうわけかブルーレイなどのソフトの販売が未定となっております。で、ご覧いただく方法としてはドリパス上映しかないので、リンクしておきます。

[映画]花の詩女 ゴティックメードを映画館で上映しよう! | ドリパス
https://www.dreampass.jp/m342768

追記(7月3日)

 いわゆる「ロボットアニメ」を期待して見ると、これは違うものだという印象を抱くことになるだろう。この映画のヒロイン、詩女を演じる川村万梨阿が歌う挿入歌が、劇中で何曲も流れる。その歌は大地をたたえる賛歌であり、多くの民とともに暮らす詩女の意思だ。この映画は一見地味かもしれないが、彼女の歌声が安らかな世界観を生み出している。永野護がデザインした世界と、パートナーである川村万梨阿の声と歌。それがこの映画の骨子だ。だから、彼女の歌を聴くために見る映画だと言い換えてもいいだろう。
 とは言え、やはりこれはロボットが主役の映画だ。永野護がどうしてもやりたかった、ロボットをこのように動かしたいという欲望。しかしそれは、これまでに見たことのないデザインと、動きだった。
 普通のロボットアニメであれば、こう見せればロボットが格好よく映るだろうという画を「たっぷりと」見せる。アクションが派手に見えるような「決めポーズ」を取る。ところが、この映画のロボット作画では、そのような動きは排除されている。永野自身によるGTM作画の特徴。それは動きの始めと終わりの画しかない(ように見える)ことだ。最初に断っておくが、アニメに詳しいファンであれば、始めと終わりの画しかないというのは動画を描くのが面倒だからだろうと思われるかもしれないが、決してそうではない。多くの枚数を使って作画していることに違いはない。
 GTMとはいかなる兵器か。それは戦闘に特化した動きを追求したものであり、操縦するのは超高速の反射神経を持つ騎士だ。GTMはものすごく速く動くし、兵器なので無駄な動きを一切しない。だから普通の人間にはその動きが見えない。目の前に現れたと思った瞬間に、もう戦闘が終わっている。GTMとはそのような超高速の動きをするように出来ているので、だからGTMの動きは、自分たちのような観客、騎士ではない一般人には初めと終わりの姿しか見えない。永野が作画で手抜きをしたのではなく、そのように動く兵器がGTMなのだ。

お知らせ(2015年1月12日)

 ファイブスター物語について書いたブログ記事をまとめたコピー誌『NAGANO!』を頒布しました。はなごよみウェブサイトで通販も行っております。


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