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ゴティックメードに足りないアニメの何か #FSS_jp #GTM_1101

 ぼくは永野護の物語世界をアニメ化するのであれば、宮崎アニメ(宮崎駿監督作品)やエヴァンゲリオンなどと同等の、圧倒的な作画と演出で描いて欲しいと考えていた。永野はアニメのデザイナーであり、エルガイム後半のストーリー原案として制作に参加したことはあったが(富野監督が次回作ゼータガンダムの準備に移ったため)、演出の経験はない。この映画が監督デビュー作となる。だから、演出家としての経験不足から、先に挙げたような大作のようにならないことは、永野ファンとしてひいき目に見ても、まあそうだろうと思っていた。しかし、それらの真似ではない、とんでもない映像が生まれてしまうかもしれないという期待はあった。
 永野は公開前、アニメ作品では、とにかく脚本が大事だと発言していた。映画『花の詩女』はシンプルで分かりやすい脚本だとぼくは感じている。この映画は事実上の「ファイブスター物語のアニメ化」であり、物語を作ることにおいて永野には経験と実績がある。しかし、永野護の書く物語(脚本)の評価とは別に、この映画がアニメとして出来がいいのかどうかということを、ぼくは考えていた。はっきり言って、ぼくがこれまで見てきた、好きなアニメの特徴である「何か」が、まったくなかった。それがなかったから、すなわち駄作だとは言いたくないけれど、物足りなさを感じていた。この映画の脚本とロボット作画は文句なしに素晴らしい。永野の言う通りアニメにおいて脚本は大事だが、しかし、脚本さえ良ければ面白いアニメになるわけではない。この映画には、アニメとしての「何か」が不足していた。永野の脚本をスタジオジブリスタジオカラーがアニメ化すれば、それらは補われたのかもしれない。仮に、そうであった場合、永野の演出と比べてどこがどう「良くなる」だろう。戦艦や、戦闘中のロボットを追うようにぐるぐると回りこむカメラワークだろうか。それとも、ドタバタとうるさく動きまくるキャラクターだろうか。それらが、ぼくが足りないと感じたアニメの「何か」だったのだろうか。
 監督の永野が、カメラワークでごまかさないと、これでいいと決めて作ったのがこの映画だ。「たられば」の話はしないほうがいい。それでも、この映画に「何か」が足りなかったのかと考えるとき、それはキャラクターだったのではないだろうか。主人公の皇子とその参謀役、この2人のキャラクターは、いかにも少年漫画のようで、際立っているし素晴らしい。詩女の手下の魔法使いたちも問題ない。では、ヒロインの詩女はどうだったか。詩女の、凛としたキャラクターは、宮崎アニメの主人公に通じるところがあったのかもしれないが、ぼくはこのヒロインに何も感じなかった。これは、あくまでもぼくがそう感じたことなので、異論はあるかもしれないが、この映画で最も不満だった点は、ヒロインに魅力を感じなかったことだ。
 主人公の皇子には感じた「何か」が、ヒロインの詩女には感じられなかった。その、ここでの「何か」は、「萌え」と呼ばれるものだったのだろうか。以降の文章展開に混乱が生じないよう、ここでは「萌え」を、ある特定のアニメにみられる(萌えアニメと呼ばれた)、キャラクターの魅力を示す、表層的でパターン化された特定の記号(デザインの意匠や仕草など)から発生する愛着、とする。萌えアニメとは言いがたいエヴァンゲリオンの新劇場版でも、「萌え」のような記号をキャラクターに取り入れることを上手くやっている。宮崎駿富野由悠季のアニメには「萌え」はない。攻殻機動隊などのような作品にもない。永野護も、どちらかといえば、その系統に含まれるかもしれない。しかし、主人公の皇子の、片目がピクピクする動きや、一瞬だけ現れた謎の女性ツバンツヒの、奇妙な顔や髪の痙攣(ではないが、そう呼ぶのが最も近いだろう)など、細やかな作画によるキャラクターの特色の一部が、「萌え」と呼んでも良いものだったかもしれない(私見では、ツバンツヒの髪が奇妙に動くのは萌えアニメアホ毛の永野バージョンだったのかもしれないと考える)。そして、ヒロインの詩女には、そのような「萌え」要素は一切なかった。
 ツイッターで、この映画にはエロを感じないと書いた。そして、この映画を見ていない、アニメ好きの知り合いから「物語に艶がないのか?」と質問された。正直ぼくは、そういうことを考えていなかった。この映画は「ファイブスター物語」でしかなく、この漫画のファンとして魅了されているぼくにとって、物語に艶があるかどうかなど、考えたこともなかった。映画は「ファイブスター物語のアニメ化」として問題なかった。あの漫画のコマを動画にすると、こうなるという創造であったはずだと、ぼくは納得している。しかし、映像に艶が出るかどうかは、やはり演出家としての技量が伴ってくるだろう。
 艶のあるフィルム。色気の感じるアニメ。それは単純に性的アピールがあるかということではない。そのアニメに出てくるキャラクター、絵に描かれた人物に対して、セックスを感じるかどうかということだ。分かりやすく言えば、その人物と話をしたくなる、お付き合いしたくなるような、そういうキャラクター造形と演出、こうなったときにこういう発言や仕草をする、などがあって、絵に描いた人物が初めて「生きた」キャラクターになる。富野由悠季監督のガンダムが、そのような演出の参考になるかもしれないし、他にも色々あるだろう。ガンダムのセイラとセックスしたいと思った男性は少なくなかったはずだし、それは単なるデザイン画の魅力ではなく、動いているフィルムを見て、彼女が性的に魅力があり、そして人間として生きていると感じられたからだろう。それは、演出家が、この人物が本当に生きていると信じて描くことで、そのキャラクターに色気が出てくる。宮崎アニメでも、カリオストロの城に出てくるスパゲッティを運んでくるだけの、ちょっとした脇役の女性であっても、この女と話がしたい、付き合いたいと思わせるキャラクターの魅力がある。
 永野にそういう、登場人物に対する、生きた人物として描くという思い入れがなかったとは考えられない。そして、この映画のヒロインである詩女とは、おそらく永野にとって特別な存在だった。それは、川村万梨阿をモデルとした人物造形だからだ。永野が自身の監督作で公的にも私的にもパートナーである川村をヒロインに選んで、台詞も彼女の声で話すことを前提に脚本を書いた。そこに思い入れがないとは考えられない。
 詩女という、巫女のような神聖な立場。そうであってもぼくは、アニメのヒロインであるからには、この女と付き合いたいという感じ方を見るものにさせる演出は必要だったと思うのだ。主人公の皇子など他のキャラクターで出来たことをヒロインでやらなかったのは、川村万梨阿は不可侵だ、下衆な言い方をすれば俺の嫁でセンズリこくなというメッセージだったのかと、ぼくは思った。もしそうであれば、これは仕方ない。

川村万梨阿最新作ベストアルバム。万梨阿さんを批判する意図はないのでリンクしておきます。

お知らせ(2015年1月12日)

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